FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

私の日記帳への思い

 最近身の回りの物,特に図書が増え来て、5年位前に、近所の神社のドンド焼で焼却しようかと整理したことがある古い日記帳が気になって、残して置くか廃棄するか迷ったが廃棄することにし、裁断した。

高校生の頃から日記を付けて来て50年余経った今、裁断しながらパラパラ目を通すと、懐かしいこと、よくこんなことまでとか、恩師、恩人、友人などの貴重な言葉や思わずそんなことがあったかとかいうことに引き込まれて、かすかに思い出してみたり、相手に不快な思いをさせたことや言えなかったことを健気にも詫びたり、あるいは褒めたりしている。

 裁断してしまってから、日記についていろいろ改めて考えさせられたことや思いを、つれづれに書いてみたい。

日記を廃棄することは、自分の内面の過去の証拠を抹消することである。
このことが日記帳を裁断したとき、これで自分の過去は消えて行ってしまったなあ~、言えようのない寂しさが湧いてきた。

自分の過去をこの眼で見るには、例えばアルバムがある。それに対して日記は自分の心の遍歴を示す証拠となるものなので大事な記録として保存したいとも思った。しかし、一昨年と昨年に母、これまでの人生を支えてくれた親族や友人と別れることになって、この人達のことは自分の心の中だけに温存して、日記帳を二度と開いて思い出に耽ることにはならないと思った。

自分の日記は、特に定まったものでなく、その日の事、何かについての思い、何でもいいから書き残して置きたい事などを書く。何時かは家族が見ることもあるかなあと思ったりしたかも知れないが、特に誰かに読んでもらうためとかは考えたことはなかった。

高校生の頃の日記帳の表紙に「日記は自分への手紙である」と書いてあった。学友とのことを語ったり、自分を見つめたり、恩人へ感謝したり、人には言えないことを語ったりすることで自分を慰めたり励ましたりしていたようである。
社会人になってからは、やはり会社に於ける仕事や同僚のこと、世相のこと、生き方などについて書くようになった。
書くことによって、気持ちのモヤモヤやイライラが払拭されてサッパリしたり、けじめがついたりということが、極めて大きな効用があったように思う。

日記は書いて閉まって置くだけでなく、時折開いて見て今に生かせればいい。
この年齢になると、忘れていた過去を思い起こすだけの記録にすぎないものとなるが、諸々への感謝ということを知らされることがある。そして、その時々「相応した対応したのかなあ~」気になることもある。

記録という観点では、50年余のことがありありと思い出せるものもある。思い出せなくても関連して想像できることもある。
そのときの心情、さらには当時の貴重な世相が映し出されていたりする。

一方、その時々の精神状態が意識するしないに関わらず文言なっているので、実際には触りたくないことも書かれているので、それを承知で後で開いて読んで見る勇気と懐の大きさが必要なように思う。

 最近はパソコン上にブログという形で日記に代わるものがあるが、一言付け加えておきたい。
自分と、限定した人、または不特定の人に見てもらえて、上手に用いれば日記にはない魅力がある。
自分のパソコン、プロバイダのサーバーに保存して置いたのを、削除し忘れて残したままになっていたとき、どんな形で誰か見るということを思うと(アクセスできる人の限定はできるが)、あまり自身の内面のことや何かの過激な批判的なことを書くことにならない。
残して置いても見れる人はせいぜい家族に限定的である日記とはかなり違いがある。
スポンサーサイト

comment

Secret

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。